ララ・ローガンに何された?カイロ・タハリール広場での集団性暴行事件の全真相
2011年2月11日の夜、カイロのタハリール広場には何万人もの人々が溢れていた。ホスニ・ムバラク大統領がついに辞任を表明した歴史的な瞬間。歓喜と興奮が交錯する広場で、アメリカのCBSテレビの女性記者ララ・ローガンは取材班とともに現場に立っていた。そして、その夜は彼女の人生を根底から変えることになる。
ララ・ローガンとは何者か
南アフリカ出身のララ・ローガンは、経験豊富な戦場記者だった。イラク、アフガニスタン、そして数多くの紛争地帯を渡り歩いてきたジャーナリスト。18年にわたって戦場報道に携わり、その鋭い報道姿勢とプロ意識はメディア業界で高く評価されていた。
CBSの主任外国特派員を務めていたローガンは、エジプト革命の取材のためカイロに入った。2011年2月11日、ムバラク大統領辞任の日、彼女は「60ミニッツ」の取材班とともにタハリール広場での民衆の歓喜の様子を取材していた。その場の雰囲気は一見、お祭りのようだった。誰もが喜び、歌い、叫んでいた。危険など、どこにも見当たらなかった。
事件はどのように起きたのか
ローガンはタハリール広場で、ムバラク辞任後に巻き起こった祝祭的な歓喜の中、約1時間何のトラブルもなく取材を続けていた。だが広場の雰囲気は、突如として一変した。空気が変わるのは一瞬だった。
200人以上の群衆が狂乱状態に陥り、彼女は取材班から引き離された。ローガンの衣服は引き裂かれ、筋肉が激しく引き伸ばされながら、彼女は200人から300人規模の群衆の中に飲み込まれていった。ボディガードのレイが必死に彼女の腕を掴んで「離さないで!」と叫んだが、それも叶わなかった。
群衆の中の誰かが、彼女がイスラエル人でありユダヤ人だと叫んだ。どちらも事実ではなかったが、そのデマはガソリンに火を点けるようなものだった。凶暴な暴行は、殺意をもった狂乱へと変わっていった。
ララ・ローガンに「何された」のか:暴行の実態
ローガンはタハリール広場で約200人の男性から約30分間にわたって性的暴行を受けた。これは後に歴史に残る事件として記録されることになる。彼女は旗の棒や棒状のもので殴打されていたが、それさえも感じられないほどだったと後に語った。感じていたのは性的暴行だけだったと。
この攻撃の中で、200人から300人の男性が彼女を取材班とボディガードから引き離し、彼女を包囲して衣服を引き剥がし、殴打した。携帯電話のカメラが彼女の裸の体を撮影するフラッシュが何度も光ったとも証言している。
ローガンは取材班の最後の一人との接触を失った瞬間、涙をこらえながら、自分が死ぬだろうと確信したと語った。しかし彼女は戦い続けた。「間違いなく、私は死の過程にあると思った。死ぬだけでなく、永遠に続く拷問のような死になると思った」とローガンはCBSのスコット・ペリーに語った。
命を救った「女性たちの輪」と兵士たち
救いは、もっとも予想外の場所からやってきた。暴徒に引きずられた彼女は、フェンスの近くに座っていたエジプト人女性のグループのところで止まった。彼女はある女性の膝の上に倒れ込み、その女性は両腕で彼女を包んで守った。周りの女性たちも輪を作り、彼女を守った。
その後、エジプト軍の兵士たちが棍棒を持ち群衆をかき分けながら現れた。一人の兵士が彼女を背負い、戦車の上に連れて行った。彼女は取材班と合流し、兵士たちがホテルまで送り届けた。
彼女は女性グループと約20人のエジプト兵士に救われ、CBSのチームと再合流した。その後ローガンはアメリカへ帰国し、すぐに病院に入院した。彼女は2月11日の攻撃の後、4日間入院した。
沈黙を破った理由:ローガンが語ったこと
回復後、ローガンは職場に復帰し、何が起きたのかを語ることを決意した。彼女は性的暴力に立ち向かう声に自分の声を加えるために発言したと述べ、「沈黙の掟」を破ると表明した。
彼女がこれを公表することを決めた理由は、女性ジャーナリストに対する性的暴力に世間の注目を向けるためだった。あの恐ろしい夜についての涙ながらの回顧が、テレビで放送された。
性的暴行という性質が、多くの被害者が語ることを難しいと感じる心理的な傷跡を残した。それでもローガンは公の場に立った。「60ミニッツ」のエグゼクティブ・プロデューサーのジェフ・フェイガーの協力のもと声明を発表し、「残酷で継続的な性的暴行と暴行を受けた」と明らかにした。それによって、ひとりで秘密を抱え込む必要がなくなったと語った。
「私は今、ずっと強くなった」と彼女はペリーに語り、自分の話が他の性的暴行被害者、特に女性記者たちを勇気づけることを願っていると付け加えた。この言葉が、世界中の多くの人々の心を動かした。
エジプトにおける女性ジャーナリストへの暴力という問題
ローガンは、エジプトでの革命中に暴行、脅迫、または拘束された100人ものジャーナリストのうちの一人だった。しかし、彼女のケースが特に世界の注目を集めた理由は、その性的な暴行の性質にある。
エジプトでの彼女の経験は、女性ジャーナリストがしばしば異なる種類の暴力に直面するという事実を浮き彫りにした。戦場で受けた身体的な怪我が大きく報道される一方で、女性に対する性的な脅威はジャーナリズムの世界ではほとんど語られることがなかった。
その後もカイロでは暴行が続き、フランス人記者のキャロライン・サンズが2011年11月に、イギリス人記者のナターシャ・スミスが2012年6月に、それぞれ性的暴行を受けた。ローガンの勇気ある告白は、この問題を世界的な議題に押し上げた。
ローガンは「女性は性的暴力の経験を訴えることがない。なぜなら、女性は外に出るべきではなかったと言われたくないから。しかし、同じような経験をしている女性ジャーナリストはたくさんいて、彼女たちは仕事を諦めたくない」と語った。
事件が社会に与えた影響と「#MeToo」への道
ローガンの告白は単なる個人の証言を超えていた。「女性がこうした問題でハラスメントを受けたり、そのような扱いを受けたりする社会では、女性は平等な立場を奪われている」と彼女は言った。その言葉は、後に世界的に広がる#MeToo運動の先駆けとも評される。
この事件は米メディア界に衝撃を与えた。特に注目されたのは、CBSが被害者の女性記者の実名と所属メディア名を公表したこと。それまでもジャーナリストへの性的暴行はあったが、実名での報道はほとんどなかった。この決断自体が、議論を呼んだ。
事件をめぐっては批判的な声も上がった。「なぜ危険な場所に女性記者が行く必要があったのか」という問いは、アメリカ国内で議論を呼んだ。しかしその議論自体が、女性ジャーナリストが直面する二重基準を浮き彫りにした。男性記者が同様の状況に置かれても、同じ疑問は決して提起されないからだ。
ローガンのその後と「強くなった」という言葉の重み
CBSの主任外交特派員として、ローガンはアフガニスタンやその他の紛争地帯には戻ると述べたが、当面は抗議運動が広がる中東諸国への取材は控えると語った。
それでも彼女は現場から退かなかった。この事件を通じて、彼女が世界に伝えたかったことは明確だ。戦場で取材する女性記者たちは、男性とは別の種類のリスクにさらされている。そしてその沈黙は、被害者を孤立させる。ローガンはその沈黙を、自らの体験をもって打ち破った。
9年後の2020年、ローガン自身がエジプトの女性たちが互いに支え合い、被害を語り、規範に立ち向かう姿に希望を見出すという記事を発表した。怒りではなく、希望を語った。それは彼女が単なる被害者ではなく、社会変革の証人として生き続けてきたことを示していた。
ララ・ローガン事件が残した教訓
この事件は、いくつかの問いを私たちに突きつけたままだ。女性ジャーナリストの安全保障とは何か。性的暴力の被害者が声を上げるためには、どれほどの社会的代償が伴うのか。そして、なぜ世界はその問いに長い間、正面から向き合おうとしなかったのか。
事件以前のローガン自身も、エジプトや他の国々の女性が日常的に経験しているハラスメントや虐待の深刻さを知らなかったと語っている。もし事前にその実態を知っていれば、もっと注意を払っていただろうと。その告白は、問題の根深さを改めて示している。
2011年のカイロの夜、ララ・ローガンが経験したことは一人の記者の悲劇ではない。それは、世界中の無数の女性たちが声に出せずにいた苦しみの、象徴的な一例だった。彼女が沈黙を破ったことで、その苦しみの一部はようやく世界の光の下に置かれた。記者としての使命を果たした夜に命の危機に瀕した彼女が、それでも再び立ち上がり、語ることを選んだ勇気は、今も多くの人の心に刻まれている。